おけはざまの歴史

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- 織田信長
(1534 〜 1582 合戦当時 27 歳)
尾張守護代の家老織田信秀の次男として勝幡城で生まれた 異端児・信長は、裸馬に乗り徒党を組んで領内を徘徊するよ うな奇行があって「おおうつけ者」と呼ばれていました。し かし、次第に頭角を現し織田家・親族間の抗争に勝って、尾 張全土を平定し支配者となりました。そして桶狭間の戦いで 「天 下布 武 」 海 道一の大将・今川義元を打ち取ってからは、 を掲げ、天性の勇猛果敢な行動力をもって戦い続けました。 岐阜、 そして安土へと移し、 前出の「信長の改革」にあるように、 その間居城を清須から小牧山、 日本の近世、近代への変革につながる多くの功績をあげております。残念にも天下統一を目前 にして、1582 年(天正 10 年)信長 49 歳の時、側近の明智光秀の謀反に会い本能寺にて自ら 命を絶ちました。
た てんしょう あ け ち みつひで む ほ ん ほ ん の う じ きょじょう き よ す あ づ ち かか てんせい ゆうもう か か ん かいどう て ん か ふ ぶ へいてい とうかく あらわ こうそう き こ う い た ん じ はだか う ま と と う はいかい
お わ り し ゅ ご だ い
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今川義元
(1519 〜 1560 合戦当時 42 歳)
白粉やお歯黒で化粧をして、馬にも乗れず輿に乗る公家風 の武将との逸話がありますが、全く違います。氏親の五男に 兄の死をきっかけとして、 生まれ、 幼少の時仏門に入ったが、 駿河、遠江を領国とする家督を継ぎました。駿府臨済寺の住 職であり軍師の「太源雪斎」の補佐を受け、三河(愛知県) も支配するようになり、 「海道一の弓取り」と称せられる武 北条との「三国同盟」を結び、 将となりました。また、 武田、 (尾張方面) への勢力拡大の基盤を整えました。そして、 1560 年 (永禄3年) 尾張に侵攻し、 西方 皆さんのよく知る「桶狭間の戦い」で、織田軍に敗れ命を落としました。この時 42 歳でした。 しかし領国では、法の整備、検地や金山開発、交通の整備など多くの改革もしております。こ れらの制度は、徳川家康が江戸幕府の基本構造の手本にもしたと言われております。 42
とくがわいえやす え ど ば く ふ き ほ ん こうぞう りょうごく け ん ち せいほう ととの えいろく しんこう た け だ ほうじょう さんごくどうめい かいどう ぐ ん し たいげんせつさい す る が とおとうみ か と く す ん ぷ り ん ざ い じ ぶつもん い つ わ ちが うじちか
おしろい
は くろ
けしょう
こし
く げ ふ う
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