桶狭間合戦始末記

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- 同伝説地は、合戦後 280 年後の天保 12 年大脇村庄屋の作った絵図には、天保 8 年の 開墾された新田一枚しかみえない。後述するが、義元は「 おけはざま山」の陣地に 入る前に、丸根、鷲津攻略の報告を受けていた筈である。 又信長が中島砦にて、今川本隊の先陣隊を眺め、 「アノ敵ハ……」と訓示しいる。 その今川本隊先陣の位置からすれば 64.9 米山頂は余りに離れすぎであり、ここを比定 する学者の先生方も同地から鳴海の善照寺、中島両砦が一望できると云っておられる が、実際には、前記の今川本隊先陣の位置する山並に遮られて展望は不可能である。 義元本陣の位置は、64.9 米山頂より西方 200 米の標高 40 ~ 50 米の山稜で南に広場も あり、先陣等の位置高根、巻山と正三角形の 1 頂点になる処で、古戦記に本陣と松井 宗信との距離 1 千米と書かれているが、丁度それ位の丘の上と想定している。この地 は麓まで古道があり塗輿で近くまで来ることが可能であった。 尚、今川本陣については、外に極めて重要な問題があるので、他の処で詳しく記述 する。
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