桶狭間合戦始末記

- ページ: 5
- 随って『信長公記』24 項の今川義元討死の事は、太田牛一の従軍記ともいえるもの である。この断定的な表現は無理と云われる方が多いと思うが、筆者は敢えて従軍記 と云いたい、何故か、筆者は過日の日中戦争で 6 年間の実戦体験をしている。この牛 一の「今川義元討死の事」は臨場感が深く、この場に居らねば表現出来ない文言が 4 ヶ所位ある。 (余りの事に) (弓、鑓、鉄砲、のぼり、さし物、算を乱すに異ならず) (信長もおり 立って) (おけはざまと云ふ所は……二つ三つ宛手々に頸をとり持ち御前へ参り候) このところは又聞きでは、この緊張感は出ないと思うからである。 さて、この『信長公記』は慶長 3 年(1598)には草稿は書き上げられていたという。 内容は首巻信長の出生頃から、足利義昭を奉じて上洛するまでとし、それ以降は、 1 年毎に 1 巻として、天正 10 年 6 月本能寺の変までの 15 巻合わせて 16 巻からなって いる。 問題は、首巻を 15 巻の後に書いたか、先に書いたかである。大方の見方は後とな っているが、太田牛一は律儀な人物、首巻と 1 巻との繋ぐ文脈をみても、首巻から 1 巻へと続けて記述されたものであろう。 織田信長の側近として、40 年は忠勤を励み、次いで秀吉、秀頼に仕え、家康の代を 慶長 15 年迄生き延びていた。太田牛一の日々書き留めたものは極めて重く、信憑性 も高いものであるはずで、当然江戸時代には貴重な資料として、その重要さは認識さ れていたようだが、桶狭間合戦史については、誠に冷淡で『甫庵信長記』オンリーで、 『総見記』 、 『諸太閤記』 、 『松平記』 、 『改正三河後風土記』 、 『武徳大成記』或いは『山 澄桶狭間合戦記』 、 『山崎真人合戦記』 、 『田宮篤輝新編桶狭間合戦記』を始めとする合 戦研究記、紀行文、旅案内書等江戸中期以降のものは、 『甫庵信長記』の流れをくむ 迂回奇襲戦で古戦場を豊明市南館の文部省の伝説地を古戦場としている。 これは何故か、太田牛一の『信長公記』という質の高い一代記、桶狭間従軍記がある のに。 前に述べた小瀬甫庵は『信長記』の序文に、 「しかあれど仕途に奔走して閑暇なき身なれば、漏脱なきに非ず。予是を本として且 つ公(信長)の善、尽く備はざる事を嘆き。 (実は首巻の桶狭間合戦のあったのは永 禄 3 年であるが、それを天文 21 年と誤記している。その為その前後の歴史がアヤフ ヤになり、明らかに間違いがある。1 人で膨大な資料の中での勘違いであろう) 且つ功あって洩れぬる人、その遺憾いかばかりぞやと思ふままに、且つ拾ひ求め之を 重撰す……」と述べて信長の一代記を重撰すると云っている。この時、牛一の「首巻」 の誤りに気付いていた筈である。この誤りは単なる記憶違いで、牛一に注意を与える 方が親切である。同じ春日井郡の出身者である。何故一言牛一に注意しなかったであ ろうか。 実は太田牛一の「首巻」の桶狭間を天文 21 年 5 月 19 日とした間違いは、明らかに 勘違いである。 天文 21 年は父信秀の死亡した時で(清須入城は 24 年 4 月) 、信長はその頃はまだ那
-5-
- ▲TOP