桶狭間合戦始末記

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- 古野城に居た頃である。然し合戦の時は清須城から出発しており、尾張統一も完了し た後のことである。 随って「首巻」は上野原会談、浮野の戦い、岩倉城攻撃戦は桶狭間合戦の後になっ ている。これは書きためた膨大な資料を整理している間の手違いが、その儘になり、 (現在では慎重な編集管理があるが、当時では暗いランプの下で 1 人で纏めていれば、 この様な事もあり得たであろう)
ろうもう
この間違いが後世「首巻」を整理する頃、太田牛一は既に、老耄していたのでない かとの話しが信憑性の低いことに転化されていったようである。これは或る面から恣 意的になされたことも否定できない。私は合戦の在った年の間違いは否定しないが、 このことによって合戦の内容の信憑性が低いとは思わない。何故か。これは私の戦闘 体験からである。命をかけた戦闘の模様は 50 年経過しようが歳が 80 をこそうが忘れ るものではない。私は戦闘から 64 年たち歳は 86 になるが、いくつかの命をかけた戦 の状況は今でも決して忘れていない。瞼に焼き付かれていて忘れられるものでないか らである。 2 番目に考えられることは、 『信長公記』は本にならず、太田牛一の自筆本が信長を 祀る建勲神社に 1 ~ 15 巻、岡山の池田家文庫(現在岡山大学図書館)に 1 ~ 15 巻 (但し、12 巻のみは写本、上記二個所とも首巻はない) 。近衛家陽明文庫に建勲神社 本を元禄 12 年(1699)写した 15 巻と、現在その所在がわからない牛一自筆の首巻を写 したものがある。以上の三点が現存する最も良質な『信長公記』である。 三点は、一つは神社の宝物、二つは大名或いは公卿の文庫にあって、この本を手に する人は極めて限定されていた。その為広く研究されなかった面もあった。 名古屋の蓬左文庫には、尾張徳川家の書跡文書類が保管されている。 その中に、太田牛一自筆になる『太田和泉守記』がある。 その釈文「この一冊について書きます。私、太田和泉守は尾張国春日井郡山田庄安 食の出身です。80 歳を越え、老齢しすでに極って、衰えた眼を拭きながら、心に浮か んだことを書きました。私が日記を書いたついでに書き留めておいたものが、自然に 集まって本になったものですから、勝手な創作ではありません。あったことは省きま せんし、無かったことは載せませんでした。一つでも偽りを書いたら天道はいかが見 るでしょうか。読者は一笑して実を見て下さい。 私は信長公、秀吉公の臣下を経て、現在は秀頼公の臣下です。この御三方に家康公 と秀次公を加え、五代の軍記を世間の笑い草にまとめました。 丁未[慶長 12 年(1606)]9 月 11 日 太田和泉牛一(花押) 志水小八郎殿まいる (藤本正行氏 『信長の戦国軍事学』より)
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