桶狭間合戦始末記

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- 川住鋥三郎編『桶狭間戦記第一稿』 1) 今川軍駐止
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桶狭間(尾州知多郡)
5 月 19 日今川軍主将義元本軍諸隊ヲ西北ニ向ケ配備シ旗本 (本営)
ヲ桶狭間山、字田楽狭間(今屋形狭間ト改称セリ、地理小志参照)ニ置キ幕ヲ垂レ之 ニ駐止ス(信長公記、織田真記、惣見記、東照軍艦、山澄桶狭間合戦記)会々先軍ノ 捷ヲ聞キ又夕敵将佐々隼人正政次等の首級ヲ実験シ言テ曰ク「今朝丸根、鷲津両砦(共 ニ尾州知多郡)ヲ抜キ今亦勝ヲ制シ多数ノ敵首ヲ獲、是レ我兵鋒ノ勇武当ルベカラザ ル者アルニ存セリ」ト豪然自カラ軍威ヲ誇リ大ニ喜ブ(信長記、惣見記、武徳大成記、 山澄合戦記)于時近傍郷村ノ祠官、僧徒等捷ヲ賀シ酒肴ヲ献ス乃チ近侍諸将ヲ思召シ 宴ヲ陣中ニ開ク(信長公記、織田真記、信長記、惣見記、山澄桶狭間合戦記)此時ニ 方リ諸隊ハ兵餉ヲ伝エル為メ各地ニ散在シ或ハ労ヲ民家ニ休ム者アリテ頗ル警戒ヲ欠 ケリ(集覧桶迫間記) 上記の様に古戦記から適宜摘出して綴ったものである。所謂辻褄合せに過ぎない。 まことに無責任な戦記である。
私の抱く『信長記』に対する問題点
「甫庵」は、その序文で「太田牛一」の記を下敷にして、漏脱を補足する為に、こ の書を記述したと称している。歴史の経過については、大体同じ過程をとっているが、 一つ一つの事件についてはその視点が大きく異なっている。 「太田牛一」は、事件の
とつとつ
事実経過をありのまま訥々 と記述しているが、 「甫庵」は、儒教的立場と云うのか、 どの事変でも、信長は正義の立場、相手は兇徒、賊軍として記述している。事変の一 つ一つを取り上げて説明する余裕はないので、信長の行動中最も象徴的な比叡山焼打 を取りあげてみよう。信長が比叡山焼打ちの命を下した時、部将の皆は躊躇した。武 井夕庵は代表して、信長に「思いとどまるよう申言した」その時信長は、皆の者、心 を閑めて承れと次の様に発言したという。 「此の山門は、吾れが亡ぼすのではない。 自業自得である。何んとなれば吾れは一命を賭け、私欲を捨てて、四海の安寧、王道 の復興に是れ努めている。而るに山門側は、逆賊朝倉、浅井軍を庇い擁護している。 その上衆徒は逆意を意図しているのではないか、幾度か家臣を遣わして種々言葉をか
ことわり
け中立であることを促して 理 を覚るべく努めているが、少しもこれに応える姿勢を 見せない。重ねて「稲葉」を派遣して、実に同意しなければ、必ず根本中堂を始め一 宇を残さず焼却し、僧徒悉くの首を刎ねると念を入れたが同心しないではないか。こ の事は信長を欺くことではなく、天下の政道護持に反するものである。兇徒を助ける
ことわり
は国賊であり、其の上此度これを亡ぼさねば、又天下は争乱の源となる」と 理 を盡 くして云われた。夕庵はこの道理に一言もなく引き下がり、あの焼打ちが決行された と記述している。 又桶狭間合戦については、 「義元は駿豆の出身であるが、遠三両国を侵略、その辺
ほしいまま
境を荒らし、神社を破壊、民家を焼拂い、我欲を 恣 にして、遂には天皇をも敬わず、 武力を使って不祥事を重ねて、日毎に手荒くなっている。その勢いは葛のつるの如し
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